首里城が炎上し、現在は変わり果てた姿を見せています。
今ではがれきと化した首里城の正殿跡に、1対の大瀧柱だけが焼け残っています。
とぐろを巻き、鎌首を持ち上げて仁王像のように厳しい表情で構えた柱状の龍。
柱に巻き付く龍の装飾は中国や日本でよく見られるものです。
龍自体が柱となった形は、琉球独自のデザインです。
目次
首里城の龍柱を製作した彫刻家・西村貞雄さんも肩を落とす
復元された首里城の龍柱を製作した彫刻家で、琉球大学名誉教授の西村貞雄さん(76)は、
オリジナルの文化が詰め込まれた首里城が、今はあまりにも変わり果て、研究と技術の総体性が一気に失われたとガッカリしています。
しかも首里城に火災が発生する前日、元美術教師らを連れて城をガイドしたばかりでした。
首里城は、一見中国の紫禁城に外観が似ています。
しかし単なる模倣ではありません。中国と日本の文化を土台として、琉球独自の文化が生まれたのです。これは首里城ならではの価値だと西村貞雄さんは語りました。
西村貞雄さんは実施設計の委員で、龍柱を含む正殿の復元作業に関わってきました。
わずかしかなかった戦前の写真や図面を観察し、中国や東南アジアの視察にも訪れます。
龍のうろこや背びれの数など細かい数まで数え、数柱の高さも測定し、戦前は地道な作業をコツコツ重ねていたのです。
この文化の結晶が首里城だったのですが、一夜にして一気に灰と化しました…。
これは日本中が驚くべき出来事です。
首里城は多くの時間が費やされた歴史的な遺産で、失われてはいけないものです。
昔と比べ、首里城の復興はしやすい!資料を手掛かりに
焼けてしまったからといってもう復元できないわけではなく、再建を目指すことができます。
手がかりがほとんどなかった戦後と比べ、今は資料があります。全力投球で再建をしていけば、やがて焼ける前の首里城の姿に戻っていくでしょう。
国の首里城整備検討委員会の委員だった県立博物館・美術館前館長である安里進さん(72)は、10月31日の早朝、大きなサイレンの音で目覚めました。
龍澤のほとりにある家ら窓の外を見ると、正殿が赤く燃えていたのです!
見慣れた景色が一気に悲劇の舞台となり、その時は放心状態になったと言います。
首里城の復元に携わった本人だからこそ、ずっと気落ちしていてはいられないのです。
火事を回避できなかった原因の究明や、再建に向けての検証が必要だと今は前を進んでいます。
首里城への熱い想いが再建の希望を強くする
30年前の復元と比べ、県民の首里城への情熱は再建の基礎となるでしょう。
昔は日本復帰20周年の記念イベントとして国主導で整備していましたが、安里進さんは沖縄戦が背景にあり、県民の中には「国から与えられたもの」、「偽りの首里城」という意識があったと話します。
それが30年以上の長い年月をかけ、県民のアイデンティティーの一部として定着していったのです!
だからこそ、「象徴としての首里城を復活させるには、たとえ長い時間をかけてでも県民が中心となり議論していく必要がある。」と発言しました。
材木の調達や人材確保、文化財としての価値を保ちながらも、今後どのように防災対策を
していくのか…?
県民が決めることにも意味があると考えられるでしょう。
焼け落ちた正殿跡に残った龍柱のように、県民も今こそ立ち上がらなくてはいけないのです。
首里城の防犯カメラの電源が火災検知する前に落ちていた…!
沖縄県那覇市の首里城の火災トラブルで、火元だった正殿内にある防犯カメラの電源が、火災検知センサーが反応する直前に落ちていたことが11月4日、明らかになりました。
電気系統に漏電やショートといったトラブルが起きたのでは?と県警や消防が火災との関係は調査を進めています。
一方で1月4日は、県警や消防による実況見分も110人態勢で続けられました。
正殿北部のがれき撤去はほぼ完了し、11月5日以降は箇所を絞って調べています。
首里城を管理・運営している沖縄美ら島財団によると、内部の映像は暗く、火災は映っていなかったそうです。
市消防局によれば、正殿内の熱を感知するはずのセンサーは10月31日午前2時34分にアラームが鳴り、駆けつけた警備員が内部に煙が充満しているのを発見。
正殿外にある防犯カメラから、正殿内部から火が出てくる光景が確認されました。
出火原因になるようものは確認されてない?
財団によると、出火原因とみられる正殿内で、過去に漏電など電気系統のトラブルが
あったことは一度もありません。
直近の、2020年10月の点検でも異常はありませんでした。
火災が発生した夜、正殿の機械警備と防犯カメラ7台に供給する以外の全電源は、全部落ちていました。
火災発生直前も同様の反応をとっていたと話します。
那覇市消防局は10月4日の実況見分について、出火原因につながるようなものはなかったと報告しています。